戯言
人の五感が互いに整合的である以上に、 ある人と別な人が あるものを見て同じものを表象するとか、社会が同じような想念を抱くということは、 とても高度な 共認識エンジンがあるということだ。身体、コミュニケーション、社会制度の次元に跨がるエンジンが。だから、難度の高いそれをなし得たこと、それに連なっている自覚は、ヒトにカタルシスをもたらす。
世代論の総括
1962年 生まれの僕の世代は消費者としては とても恵まれてきた。 80年代 オートバイや 自動車の最盛期 に それを手にすることができ、80年代後半以降、 日常生活への浸透するコンピューターをオンタイムに手にすることができた。就職しては バブルを 謳歌し、 90年代 には ジェンダーフリーの先頭を切った。何より、それらを 享受できる 社会的な安定 が あっ た。
ても、 有象無象を生み出す時代には巡り合わせなかった。生み出す場とは、混沌、新奇なモノやヒトが限られた場に生息すること、支配的な価値観との相剋、生死をかけた争い といったものだ。僕の世代が享受した物の多くは、50-60年代米国で生み出されたものだ。ある場所にだけ生息しえた初期のハッカーたち、 イージーライダー の最後で保守的な田舎オヤジに捻りたち殺されてしまう主人公の ヒッピーや、 公民権運動 の広告塔となって自殺に追い込まれた ジーン・セバーグ をイメージせよ。
抜け落ちる時間と断片的 な記憶
サラリーマン時代にルーチンワークをしていた膨大な時間は 殆ど記憶から抜け落ちている。特にこの10年は、鈴木さんの眼差しと多津さんのことしか覚えていない。だから 30年前なんてほんの少し前のように感じることがある。
自己幻想能力
幻想は共化の方向だけでなく、自己に向いても発動される。よい自己イメージをもつ、やりたいことを見つける、といったことは、ベールをかける呪いだ。自己幻想能力は、ないし、判りつつもすがることは、楽に生きていくために役立つ。
それにしても、茫々としたリアルにただ放り出された生の感覚が、精神的に辛く耐え難いのは何故なのだろう。 僕の場合は、時間も身体もないイデアの記憶とそこから放逐され受肉したこと ?
時間と肉があるからこそ、ヒトは何かをしなければならなくなる。だが、それだけでは苦痛の充分な説明になっていない。
エントロピー増大に逆らって命を継いでいくことだけが設定されているのに、そのありのままに苛立ち、それ以外の目的を求めてしまう『夢見たがり、何かやりたがり心性』がある。自己幻想のエンジンもこれだろう。その心性の正体は何なのか。
半世紀に渡って植え付けられた 勤勉精神の賜物だとすれば、この生活を続けるうちに 次第に抜けていくであろう。 そうでないとしたら:
ゲシュタルト形成する強い無意識性行と同根で、もっとメタレベルの、何か成果や共認識を形作ろうとする抗エントロピー欲があって、意識に働きかけるのか。メタであるがゆえに、現実乖離も気にしない。とすれば、夢見がちなのが本性、苦痛は夢から揺り起こされたために引き起こされるもの、ということか。
では、その夢見性行に素直に乗っかっていればよいではないか?でも、夢見性行は結構強度が弱くて、よく綻ぶんだよね。これも不思議。まだ未完成な能力で、現実を塗覆しきれないからか。それとも夢見性行に対抗する性行(食欲、痛覚、言語理解など)があって、完遂を邪魔をするからか。
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